区別と差別
LGBTに関する論文の寄稿やその後の対応で自主的ではあるものの新潮45が休刊に追い込まれました。
精神医学などの進歩により、肉体的性別と精神的性別が異なる人々が先天的にいるのことが分かり、また、愛情の形も多様化していることから、世の中はLGBTの人々を差別しない、権利を保護する、との方向に向かっています。しかし、精神的な部分の多くは後天的な親子、家族関係や教育で醸成される部分も多く、多くの批難を浴びた「性癖あるいは性的嗜好」と言われる部分も一方的に否定することはできないと思えてきます。新潮45の中では、過激な文言で比喩されていましたが、すべて人々のすべて嗜好を弱者保護の立場で受け入れることはとても困難であることは間違いありません。ただし、家族として支え合って生きているのに、病院の処置の承諾や付き添いなどの保護者、代理人としての権利、婚姻できないために法定相続権がない(ただし、これは遺言書をお互いに作成すれば済むこと)など、新しい家族の形態として社会的に認める必要がある部分もあります。
確かにLGBTの先駆者が芸能、ファッションなどの分野でその特質を存分に発揮して活躍され、社会的地位を築き、多様性としての存在感を示していますが、過度に肩入れする必要もないように思います。お金のため、嗜好のひとつ、ファッションとしてLGBTである人々とそれでしか生きられない人々は差別ではなく、区別して新しい家族関係を支援できればいいのではと思います。
女性の社会進出に関しても、前のめり過ぎの印象を持つのはすでに古い考え方なのでしょうか。例えば、古い日本的な父系家族も女性の平等、社会進出を促進する阻害要因のように言われることも多くなってきていますが、これができていたことで、母子関係の絆を強め、奇跡的な戦後復興が可能となった一因と思えます。現在の女性の社会進出要請は、日本の労働力人口減少対策と国家活力維持が主因で、本当に豊かな国民生活の構築とは少し違うところに向かっているような気がします。家族でひとりだけが働いて充分な収入が得られれば、夫婦共働きを望む比率はそれほど高くないでしょう。
区別や分業であったものを悪役「差別」に塗り替えて論じないようにすることも、多様性社会になればなるほど必要な分別と思えます。女性の社会進出については女性社長比率、女性政治家比率など、よく世界各国の順位付けなどで語られますが、すべてを横並びでみるだけでなく、固有の文化的背景など歴史的価値観と今後の社会構造などをもっと科学的かつ統計的にみて論じる必要がありそうです。
少し極端な例ですが、サウジアラビアが女性に運転免許を解放したことは、歴史的、宗教的慣習を超えて脱石油後の国家運営への女性労働力の戦力化を見据えた改革で、国家としてのグランドデザインを感じることができます。もちろんサウジアラビアは、それ以外にも、新技術への大型投資ファンドの設立、太陽光発電事業での海外との提携など次々と施策も将来に向けた施策を行っていることは周知の通りです。